ウクライナを訪れた日々ーステンカ・ラージンの故郷

2022.02.25

2012年にウクライナを訪れてその後いくつかの雑誌に寄稿したが、ロシアのウクライナ侵攻という事件を知って悠かなる大地ウクライナを思い出し、当時の寄稿文を掲載する。これはサバンナクラブの機関誌に投稿したものであるが、サバンナクラブとはアフリカを愛する人々の会で、その設立は1976年(2010年より一般社団法人)、創設者は、山崎豊子「沈まぬ太陽」の主人公・恩地のモデルとなった小倉寛太郎さんであった。この時にウクライナの将来を私なりに憂えていたのは今日のことを予感していたのだろうか。

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ウクライナを訪ねて(サバンナクラブへの寄稿)

井谷善惠

はじめに

今、ウクライナは揺れている。親ロシア的といわれたヤヌコビッチ政権が崩壊、議会の反対派指導者トゥルチノフを大統領代行として、5月大統領選挙に動く。ただ今回のサバンナクラブへの寄稿としては政治的動向を論究するのが目的ではない。

筆者は2012年5月5日から17日まで12日間、GUAM四カ国(グルジア、ウクライナ、アゼルバイジャン モルドヴァ)へのプレスツアーに招待されて参加した。

当時はウクライナ情勢が今ほど厳しいものになるとは想像もできなかった。ただ、ウクライナという日本からは遠いと思われたあの国の現在の混乱ぶりは、私たちにもまったく関係のないことではない。サバンナクラブにもあまり関係がなさそうな思えるメンバーも多いかもしれないが、これはアフリカ諸国でも充分起こりうることであり、この機会を利用して、当時のウクライナを振り返りながら、ウクライナという国を自分なりにサバンナクラブ会員諸兄姉に紹介してみたい。

 

1.ウクライナ概略

ウクライナは、黒海北に位置し、国境を西から、ロシア、ベラルーシ、ポーランド、スロバキア、ハンガリー、ルーマニア、モルドヴァと接している。黒海を挟んでトルコが位置する。

ウクライナが始めて固有名詞として文献に登場するのは、黒海北岸の地を「キンメリア人の地」と呼んだ紀元前8世紀のホメロスの『オデュッセイア』の中である。キンメリア人はインド・ヨーロッパ語族の民族といわれ、紀元前1500~前700年ごろ黒海北岸に居住していたといわれる[1]。その後スキタイ人が現れ、この民族については歴史の父と呼ばれるヘロドトスがその遊牧民の生活を生き生きと描き出している。

その後は現在もウクライナの首都であるキエフを中心としたキエフ大公国(キエフ・ルーシ)がウクライナとベラルーシ、ロシアにまたがる大国として十世紀に大いに栄えた。ウクライナはかつてのソビエト連邦ではモスクワ公国に次ぐ広い大地と面積を誇り、その国土のほとんどが肥沃な平原で温暖な大陸性気候のため16世紀以来、ヨーロッパの穀倉地帯として知られてきた。

首都キエフには世界遺産の「ソフィア大聖堂」(写真1)、及び「ペチェールスカ大聖堂」、金工細工が素晴らしい紀元前4世紀にギリシャ人が作ったといわれる「スキタイの黄金の首輪」を所蔵する「ウクライナ歴史文化財博物館」、「民族建築と生活博物館」など見るべきものは非常に多い。

(写真1)

特に広大な野外博物館である「民族建築と生活博物館」は、伝統的な木造建築などをハイキング気分でゆっくり時間をかけて回りたい。我々が訪れたときは木造のボクロフスカヤ教会で幼児洗礼式が行われており、観光目的の建造物ではなくて今でも実際に使われていることが実感できた。(写真2)(写真3)(写真4)

(写真2)

(写真3)

写真4

ウクライナ国民は文化、芸術への関心も高く、キエフ市内の1901年に建てられたシェフチェンコ記念国立オペラバレエ劇場はネオ・ルネッサンス様式で、現在でも内外のバレエやオペラが盛んに上演されている。

また、キエフ大公国時代に建設され、政治文化の中心的役割を果たしてきた「聖ソフィア大聖堂」の大聖堂からは「公園の中に街がある」とうたわれた町が一望できる。(写真5)

(写真5)

3.リゾート地オデッサ

キエフから空路で伸びている黒海に面した町オデッサは、1792年にロシア帝国がウクライナを併合後、エカテリーナ2世が古代ギリシャの植民地オデッサスにちなんでオデッサと名付けた。

ロマノフ王朝エカテリーナ二世(1729-1796)が好んで以来ロシアでは昔から避暑地として知られ、西ヨーロッパからも多くの人が訪れるため、地中海風のカフェやおしゃれなレストランなども多くある(写真6).

(写真6) オデッサのおしゃれなカフェ

高台の市街地と港を結ぶため作られた198段の大階段は(写真7)(写真8)、「ポチョムキンの階段」と呼ばれる。これはセルゲイ・エイゼンシュテイン監督のサイレント映画「戦艦ポチョムキン」の一シーンから取られている。

この映画は1905年の第一次ロシア革命の最中にロシア黒海艦隊の水平が起こした反乱「ポチョムキン号の反乱」を題材とし、この階段が大虐殺の場として描かれている。しかし現在の市民にとっては憩いの場所であった。(写真9)

(写真7 ポチョムキンの階段)

ポチョムキンの階段から港を臨む(写真8)

写真9 ポチョムキン広場でくつろぐ市民たち

ウクライナの飲み物、食べ物

ウクライナと隣国のモルドヴァは長年にわたってロシアやルーマニアなどヨーロッパとの関係が深いことが、カフェの数やコーヒーへの嗜好などから感じられた。写真2はキエフ市内で見た移動式カフェである。(写真10)

(写真10キエフ市内の移動式カフェ)

ロシア料理として知られているボルシチなど、実はウクライナにルーツを持つものも多い。ロシアという言葉の語源も8世紀末のキエフ・ルーシ公国のルーシからくるなど、これまで包括的に「ロシア」と捉えられていたものの中にウクライナを含めたコーカサス諸国の文化や生活から生まれているのが多くある。

食べ物としては、ボルシチ以外にもペリメニと呼ばれる水餃子のようなものを浸したスープ(写真11)やキエフカツレツなどが知られている。洗練されてはいないが、農村風のあたかかみのある料理が特徴である。

写真11 伝統的ウクライナ料理ペリメニ

筆者は近代のコーヒー関連書籍ではバイブルともいえる『オール・アバウト・コーヒー』などの著書で有名なW.H.ユーカーズの『ロマンス・オブ・コーヒー文化編』を去年、翻訳出版の機会に恵まれた。

この本では詳細にロシアの茶とサモワールについて書かれている。ユーカーズによると、ロシアで長年にわたって飲まれていたのは中国産の茶葉であった。この茶葉をサモワールで沸かした湯で作る。ただ、近年ロシアでもコーヒーを飲む人は非常に増加しており、インスタントコーヒーの輸入量は世界一であるが、今のところ、ロシアの国民飲料と言えばまだ茶と言えるだろう。

ロシアにはじめて茶が入ってきたのは、1638年のことで、モンゴルの藩主がミハイル・ロマノフ一世に4プッド(ロシアの単位で、1プッドは65-70kg)の茶を贈呈したとされる。

1679年からはロシアは中国から毛皮と交換して隊商を使って中国から定期的に茶葉を買う契約を交わした。1689年のネルチンスク条約とキャフタ条約により、ロシアは茶のために中国へのキャラバンのルートを伸ばしたが、この段階では取引はわずかで、中国やロシアでは乾燥した茶葉を固めたものを通貨として使用したときもあった。しかしエカテリーナ2世の死後、徐々にロシアには低価格の紅茶が入ってくるようになった。しかし1860年を境にして、シベリア鉄道の延伸もあってキャラバンによるルート利用は減少し、ロシアは中国からよりもオデッサやロンドンから茶を取り寄せるようになった。

ロシアにおいて茶は単に飲み物というだけでなく、生活に密着して、さまざまな文化を生み出し、限られた紙面では伝えきれないが、ロシアの茶の文化が、ロシアだけでなく周辺諸国に多大なる影響を及ぼしていったことは明らかである。

訪問したGUAM四カ国のうち、アゼルバイジャン、グルジアにはチャイ(茶)の習慣など現代でもイラン(ペルシャ)やトルコの影響が感じられるのに対して、ウクライナとモルドヴァは長年にわたってヨーロッパとの関係が深いことが、カフェの数やコーヒーへの嗜好などから感じられた。

ステンカ・ラージンとウクライナ

現在、ウクライナで問題になっているのは西と東の分断である。

東側はロシア系住民であり、ロシア帝政時代、農奴から生じたウクライナコサックという人たちがいたが、絶滅政策に遭い、その後ロシア系住民が移入してきた。

コサック(トルコ語で”群を離れた人”を意味する)とは、帝政ロシアにおける軍事組織であり、ドン・コサック軍はウクライナ人、南ロシア人やタタール人などによって構成され、現在の南東部ウクライナと南西部ロシアに当たるドン川の流域を中心に勢力圏を持った組織である。

日本でもドンコサックを歌った『ステンカ・ラージン』はロシア民謡としてよく歌われた。

この曲はアレクサンドル・グラズノフが作曲した交響詩作品13であり、歌の内容はステン・カラージンの愛妃ペルシアの姫が見た不吉な夢(ラージンが殺され、部下は牢獄に捕らえられ、姫はヴォルガ川の流れに巻きこまれる)は正夢となり、敗北を悟ったラージンが姫をヴォルガ川に投げ落とし、最後の突撃を仕掛ける様が描かれている。

ステン・カラージンの本名はスチェパン・チモフェエヴィチ・ラージン(1630 – 1671)、コサックのアタマン(指導者)である。ロシア帝国のドン州ジモヴェーイスカヤ集落にて富裕なドン・コサックの家で生まれたが(父はロシア南西部に位置するヴォロネジの生まれ、母はトルコ系とされる)、次第に貧しいコサックの人たちに共感を覚え、モスクワ・ロシア南部において貴族とツァーリの官僚機構に対する大がかりな抵抗運動を指揮している。このスチェパン・ラージンとその兄は激しい戦いの中ドン川に引き返し、翌1671年、最後の砦で再起を図っている途中、兄弟ともに捕らえられ、モスクワへ連行された。

1671年、ステンカ=ラージンは激しい拷問を受けた後、赤の広場四つ裂き刑に処され、兄も後に処刑されている。彼らの掲げた夢なるコサック国家の構想は、すべて潰えた。

あと一歩のところで、偉大な夢を潰されたドン=コサックのアタマン(指導者)ステン・カラージンは、その後も民衆の間では”ラージンは死なず”の信仰が生まれ、その後「ステンカ=ラージン」を代表とするロシア民謡や伝説の主役となって語り継がれていったのであった。

 

おわりに

ウクライナも含めたGUAM四カ国共通のゼネラルインフォメーションとしては:

  • 電圧はすべてヨーロッパと同じ220Vで、プラグもヨーロッパと同様C型ピン。
  • 通貨は四カ国すべて違うがユーロがほぼどこでも使用可能で、ホテルやレストランではクレジットカードが使える。
  • ホテルや空港などの公共施設ではWIFIも可能で、日本からの携帯電話も使える(ただパケ放題範囲外なので通話料金に気をつける必要がある)。
  • 最高級ホテルでもシャワーの部屋は多い。
  • レストランなどの食事はホテルの朝食も含めて全般的に野菜が豊富である。

また、日本からの観光客誘致増加という面で見れば、トイレの問題、田舎に行けば未舗装の道路、言葉の問題など(四カ国ともロシア語がよく通じるが、その分英語などは通じにくい)が課題といえる。また、東方正教教会内のイコンやフレスコ画など興味深いものも多いが、ソ連時代に破壊され、その後20年で修復がなされ、その修復が進みすぎて美術的価値がかえって見出しにくくなってしまった状態のところも散見した。それでもあの旅行を振り返って感じることは、これらウクライナも含めたGUAM諸国が、西洋の利便さと、ロシアのおおらかさと、トルコのオリエントの香りが混在した不思議な魅力あふれる国々だということであった。

飲み物は、ミネラルを多く含む水質などの要因により水道水が直接飲料水としては適さないことも多いため、嗜好飲料としてワインや果実ジュースが主体となりそれらは現在でも地産地消が多く、コーヒーや紅茶がその後導入されて国も珍しくない。また、ウクライナも含めてこれらの国の人々の食生活は野菜が多く、香味野菜もふんだんに使い、揚げ物、シチュー、パンなど種類も多く、訪れる前に考えていた以上にまことに豊かであった。ただ、かつてはソ連に納入すれば買い上げてくれたワインや果汁がその後GUAM四カ国が親欧になるにつれ、ソ連との関係の悪化により、輸出が困難となり、甚大な影響を経済に及ぼしている。

ロシアと欧米諸国の狭間にあり揺れるウクライナの将来はどうなるのだろうか?

ステン・カラージンはウクライナ人ではなく、南ロシアに生まれている。しかし、あの歌が農奴という制度から生み出されたように、昔も今も、市民が最もつらい思いをするのは同じである。2年前に訪れたウクライナの牧歌的な雰囲気と、ステン・カラージンの物悲しい曲を口ずさむたびに、ウクライナの平和を願わずにはいられない。

本稿作成に当たりましては、外務省、アゼルバイジャン大使館、ウクライナ大使館、グルジア大使館(モルドヴァ兼轄)、及び各国観光省、及びロシアNIS経済研究所岡田邦生氏にお世話になりました。この場を借りまして心より御礼申し上げます。

主要参考文献

Kiple, F, Kenneth, 2000,The Cambridge World History of Food Volume I-II, Cambridge University Press

Millstonem Erik & Lang, Tim, The Atlas of Food, 2008,University of California Press, Berkeley

Subtelny,O:Ukraine;a history of 3rd ed., , 2000,University of Toronto Press

伊東孝之・井内敏夫・中井和夫編『ポーランド・ウクライナ・バルト史』山川出版社 1998年

黒川祐次『物語 ウクライナの歴史』中公新書 2002年

[1] 黒川祐次『物語 ウクライナの歴史』2002年 p2