ヴァンタインのポット

2010.04.11

今、「ロマンス・オブ・コーヒー 文化編」の本の翻訳をしているせいか、やたらとコーヒーが飲みたい。
今日はヴァンタインのポットについて。
写真のポットはヴァンタイン商会が作ってアメリカに輸出したポット。
この会社の創立者、アシュレー・アブラハム・ヴァンタイン(Ashley Abraham Van Tine )については、私の『オールドノリタケの歴史と背景』などにその詳細を書いたが、彼は1840年代にサンフランシスコで商売を始め、その後中国と日本から輸入した商品を扱うビジネスをニューヨークで始め、トルコ絨毯も扱うようになり、その方面ではニューヨークで名の知られた貿易業者となった。

日本においては、明治25年 (1892)頃ヴァンタイン商会は、出張所が名古屋の長堀町に設け、明治27年(1894)頃には転写紙を、後にはラスターも輸入するなど、積極的に新しい手法を取り入れながら、白壁町に生地の見本窯を作ったのは明治33年(1900)頃のことであった。美濃の猿爪町(現在の岐阜県瑞浪市付近)から中村彌九郎を呼び寄せて白生地を焼かせている。
その後明治41年(1908)頃には、東芳野町へと移転。当時のヴァンタイン商会が生産していたのは金盛、金地色盛が中心で、金地色盛の八寸コーヒー碗1ダースの画料は5円ぐらいであったと西村興三郎が語る 。とはいえ、ヴァンタインのビジネスの主眼はあくまでも販売に置かれていた。
ヴァンタイン商会の日米貿易は1920年代まで続き、事業自体はアシュレー・ヴァンタインの死後、約60年後の1951年頃に終わりを迎えた。日本から撤退の理由はアシュレーの死後、極東貿易の縮小と、九谷、京都等の磁器メーカー同様、オリエンタリズム、または伝統的な日本の花鳥画や金襴手に拘泥するあまり、アメリカの市場動向を把握することに遅れを取っていったことにある。
写真のポットのデザインは長崎の南蛮人にも似て、また中国人にも似ていわゆる西洋人が描くところの日本人=中国人みたいな奇妙な柄だが、不思議と違和感がなく、面白い。またハンドルも持ちやすくて、けっこう気にいっているポットである。