戦車の勘違い ティアラの持ち腐れ

2011.06.07

自分の眼でまじかに戦車を見たのは、9.11で、ニューヨークのワールドトレードセンターがテロのため破壊された翌日に、当時イギリスに住んでいた私がその日に日本からイギリスに戻り、ヒースロー空港に着いた時だった。

ヒースロー空港は前日、テロの恐れありとしてクローズし、私が到着したころにはすでに飛行機の発着は再開していたが、厳戒態勢で、戦車が空港ビルの周りを取り囲み、銃を持った警察官があちらこちらに立っていた。

そのときに、戦車を見て、恐怖というより、違和感があった.。時にあのときの違和感について考えていて、ふと考えついた。

戦車というのは本来、地面で国境を接している国が使うもので、日本やイギリスが持っていてもあまり意味がないんじゃないかと。

ベトナム戦争で、沢田教一がキャパ賞を受賞した「泥まみれの死」にも、その上に乗ったアメリカ人兵士が解放戦線戦士を引きずる戦車が写っていた。インドシナも半島とはいえ、大陸の一部だ。

アメリカ大統領ジョン.F.ケネディの母親が、夫ジョセフ=ケネディ大統領の父からティアラを贈られたが、ついにつける機会がなかった。

なぜなら、ティアラとは本来、王家に連なる妃が着けることのできるものであり、どんなに裕福でも、それに値する身分を有しないものは飾ることが許されないからだ。

もちろん、私がティアラを身に着けることも、戦車に乗ることもないだろうけれど、このごろ、身の程知らずということをいさめる世の中の仕組みというのが減ってきたなあとおもう。自分のことも含めて(一番に例として?)の反省である。