足首のプレートを取る手術無事終了!

2015.08.20

去年の10月に左足首骨折をして、手術をして入れていたプレートとボルトを抜く手術が無事終わりました。その節には本当に多くの方々に仕事のことなどでご迷惑をおかけしたのにもかかわらず、お見舞いや励ましのお言葉をいただいた。心からの感謝である。去年骨折して、家族や友人に多く助けられ、自分が一人ではいかに非力であるか、どれほど家族に守られているかよくわかった。同時にいつか次は自分がお見舞いをする側に立つとするとお見舞いとはどうすればいいのかということもよく考えた。

私が骨折すると、とりあえず、病院に面会できるかどうかわからないけれど、無駄を覚悟で駆けつけてくれた友人、治るのを辛抱強く待って治ったころに快気祝いをしてくれた友人。自宅に来てくれて、整理整頓を手伝ってくれた友人。

改めて友達の思いやりに感謝した。同時に、??という人もいた。お見舞いを送りたいという気持ちはありがたい。それには十分感謝する。しかし、自分が骨折して車椅子や松葉づえの身になってみて初めて分かったのだけれど、お見舞いの品を郵便や宅急便、アマゾンで送ってくれても、それを告げるインターフォンが鳴ってもすぐにインターフォンに出られない、玄関口に宅急便の人が来てもすぐに玄関口にはいけない。そういうことを組んでくれた上で、宅急便の但し書きに「インターフォンに出るときに、または玄関口に出るまでに時間がかかるかもしれませんので、受取人が対応するまでゆっくり待ってください」と書いてくれた人がいた。反対に自分がお見舞いを送りたいからその気持ちをとりあえず受け取ってくれという人もいた。

またお見舞いを送りたいといいつつ、同時に、また論文をメールで送りますのでお時間のある時に、論文でも読んでいただけたらありがたいと書いてきた人がいた。えっ?時間のある時に論文を読んでほしいって??私自身の論文や頼まれている査読中の論文も読めていないのに?痛みのため2時間続けて眠ることができないでいるときに?

今まで誰かがけがをしたり入院したりすると、お見舞いを送りたいという気持ちをストレートに表していた。でも相手の立場に立つということ、送ったお見舞いを受け取るということが完全なバリアフリーの家でもない限りむずかしいということがよくわかった。

日本のほとんどの家はたぶん外玄関から内玄関へ、あるいはマンションのドアを開けて、リビングへ入るのに段差がある家がほとんどではないだろうか?そんなときわずか数センチの段差が、数段の階段が車椅子や松葉づえの身では無理という場合があるということを知った。

やっとプレートが取れて多くの人に感謝、そして自分がお見舞いを送ることがあったら、相手の身になることとはどういうことがこ一番よいのかと考えることのできた1年だった!